国一日記#240921(国一の日)。

今年の1月か2月ごろ、東京で働いている友達とメッセージで話している時、日本の新しい習慣を知りました。毎月29日には、焼肉を食べに行ったり、スーパーでお肉を買うと、安くなることがよくあります。それは、29日の数字の発音が「肉の日」と同じだからです。
その時の会話の終わりに、友達が突然、「9月21日は君の日じゃない?」って言ったんです。その日の日付の読み方が「くにいち」で、まさに「国一の日」じゃないかってね。
冗談でしたが、僕はその言葉をしっかり覚えて、iPhoneのカレンダーに9月21日のリマインダーを設定しました。
あっという間に、僕は3月21日から留学生として京都に住んで6ヶ月が過ぎました。本当は9月21日に北京に帰る予定でしたが、よく考えた結果、そのフライトも自分でキャンセルしました。自分が何をしたいのか、留学で何を求めているのか、もっと冷静に考える必要があると思います。そして、この秋休みを使って、たくさん日本語の復習と予習をしなければなりません。
そういうわけで、9月21日「国一の日」がやってきました。朝、カーテンを開けて、まだ暗い空を見た時、今日が僕の誕生日のような気がしました。
しかし、その「誕生日」のような喜びはすぐに消えました。中国の深圳で殺害された日本の小学生のお父さんの手紙を読んだからです。その手紙の一行一行が、読む人だけでなく、書いたお父さん自身の唯一の光も消してしまいました。
だから、「国一の日」に野球少年が練習している公園へ走るつもりだった僕は、急に気が変わって、ランニングコースを西から東に変えて、誰もいない宝池公園に向かいました。
このルートを走ったのは、6月8日、僕の誕生日以来です。だから、3ヶ月ぶりにこの道を走ると、いろいろな思い出がよみがえってきました。誕生日に一人で「独り祝う」記憶や、もっと前に観光客として走った時の記憶、そして去年の10月末にこの道で一人で42キロを完走した記憶……。いろいろな間隔で、京都や日本に対する理解や日本語の認識の変化が、頭の中に鮮やかに浮かんできました。
初めて踏切で電車を待った時のことや、Google Mapで電車の時間を何度も確認した時のことを思い出し、今はスマホを見なくても経験だけで待つことができる自分に気づきました。
去年の秋に金属の鳥を初めて見た時のことや、宝池公園を初めて見た時の感動も、帰り道にあった大きな鏡に映った自分を撮った時のことも思い出しました。
そんな思い出がよみがえってくる中で、もうトイレが見つからなくて困ることもなくなり、小銭を忘れるのが怖くなくなり、スマホでルートを確認する必要もなくなり、他の観光地や飛行機に急ぐこともなくなりました。僕は京都に住んでいて、ここで生活しています。外国人だけど、少しずつこの場所の一部になってきました。
……
ランニングを終えてコンビニに入ると、たくさんのヨーロッパからの外国人観光客が商品を選んでいました。列の順番がわからない外国人に譲って、僕はおなじみのコンビニの店員さんと挨拶を交わしました。「涼しくなってきましたね。この店もまた忙しくなりますね」と彼は食品をスキャンしながら言いました。「そうですね、二条城のそばですから」と僕も近所の人のように答えました。
……
次の「国一の日」、僕はどんな状態になっているでしょうか?ゆっくりと時が流れて、自分がもっと成長していたらいいなと思います。